天上の海・掌中の星

    “闇夜に嗤(わら)う 漆黒の。”
 



          




 春先の夜陰はどこか気まぐれで。冬場のそれのような、上等のビロウドみたいなつるんとした肌触りと、光りさえ吸い込む正に漆黒、深い奥行きに満たされていながらも。入り込む者を拒絶はしないまま、むしろ迎え入れてくれる気安さがある。もう少ししたら桜が咲くね、そうなったら月を迎えにやるから遊びにおいでよ。おいでおいでまではしないが、それでも。猫の背中のなめらかさ、寄って来るのに撫でると逃げてく、そんな気まぐれな柔らかさで接してくれてる、ような気がする………。





 まだ日付は変わっちゃいないが、いつもならこんな時間帯だと、そろそろ家中の明かりが落ちて眠りにつくはずの小さなお家。お勝手に近い小窓が薄く開き、まだ肌寒いお外へ洩れ出るは白い湯気。水音や物音がするからには誰かが使っているらしく、
「お湯加減はいかがですか?」
 脱衣場の向こうから怖ず怖ずと掛けられたお声へ、
「いや~、最高っすよvv」
 何たってビビちゃんが立ててくれたお風呂ですものねぇと、相変わらずに調子のいいことを言っている聖封さんのお声が、ほのかなエコーを帯びて返って来たが、
「何言ってんだ、サンジ。」
 沸かしたのは湯沸かし器だぞと、通りすがりのルフィがいかにも真っ当な口を挟んで、だがしかし。そんなものは聞こえちゃいないのだろうこともまた、天聖界組の面々にはお見通し。よほど機嫌がいいのか、鼻歌まで聞こえて来たものの、
“まあ、一遍 突き抜けた後だからな。”
 どうしてくれようかという猛烈な怒りや衝動が、勢いよく天辺突き抜けたその後遺症。ある意味で“ハイ”になってる彼でもあるのだろうよと、こちらさんは先に浴びた…果たして地上の風呂に張っても天聖界の聖水は沸かせるものかを試す役を割り振られた破邪殿が、結構重くなってた体が何とか元へ戻った身軽さを実感しながら、500mlのビールをく~~~っとあおって空けていらっさるところ。湯上がりの一杯は陰体に戻っても美味しいのか、結構なペースにて飲み干したそのまま、ふうっと大きな吐息をついた緑頭のお兄さんの向かいから、
「…なんかそうやってると、まるきりそこらのおっさんと一緒だな。」
 ありがたいご感想を下さったのは、風呂場前から戻って来たルフィであり。到底褒められているようには聞こえなかったので、
「放っとけよ。」
 口元をひん曲げた破邪殿、ちょいとつれない言いようを返してしまう。とはいえ、それも長くは続かなくって。
「…なあ、ルフィ。」
 空になったアルミ缶。大きな両手で挟んでそのまま、お膝の上辺りで、もっと細くしようとするかのような所作で揉むように回しながら。ゾロが言葉を選びつつ、ルフィに訊こうとしているのは…先程のこと。あんなとんでもない事態へと状況が流れゆき、

  ――― ああもしかして、これで俺も終しまいかも知んない

 実を言うと、ちらっとながら…そんな弱気なことを思わんでもなかったほどの窮地にあった彼を。どこからともなく滑空して来て救ったルフィ。彼がお留守番をしていたこの家があるのとは、微妙に障壁を隔てていた別の次空であったのに。そんなことまでお構いなしに…しかもしかもその小さな背中へ、彼の身長と同じほどの大きな翼を、ただし一枚だけ。健やかな輝きと張りにて ぴんと広げてツバメのように翔んで来た少年。目指すはただ、ゾロへ。こちらの落下加速と競おうかというほどもの、途轍もないスピードにて駆けつけた割に、その手が触れたその瞬間、

  ――― ふわん、と。

 淡い光の膜のようなものにくるみ込まれたと同時に、落下の加速が嘘のように掻き消えた。サンジが咒で用意しようとしていた、緩衝物に受け止められたような感覚とも違ったし、何かに吊り上げられての引き上げられたような相殺作用でもない。まったく反作用がなく、落ちていたこと自体をなかったことにしたかのような、何とも不思議な感覚で拾い上げられたゾロであり、
「…お前、さっきはどこから来たんだ?」
 一体 何から、どう訊けば良いのやらと。ゾロの側もまた、まだ少し混乱の覚めやらぬまま、それでも訊いてみたところが、
「ん~~~。」
 視線を真ん前のテーブルの上へと落とした坊や。しばし唸って見せてから、

  「判んね。」
  「うぉい。」

 素早い突っ込みが入ったのも無理はないが、
「だってホントに判んねぇんだもん。ちゃんと2階で寝てた筈なのにサ。気がついたら空を飛んでた。」
 だからしょうがないじゃんかと、嘘なんかついてないと言いたくてのことだろう、やわらかそうな頬をぷっくりと膨らませたルフィからの凝視に、
「う…。」
 こちらもまた即座に反応し、表情が固まるところが、
“判りやすくなったもんだ、うんうん。”
 微笑ましいんだかそれとも情けないんだかと、何とも複雑そうな苦笑を零しつつ。ほこほこと髪から湯気を上げるほど温もって来たらしき聖封さんが、彼にしては珍しい、丸首のスムースジャージにフードつきのフリースのパーカーなんていう、いかにもざっかけない恰好でリビングへと戻って来て、さて。
「ルフィには自覚がなかったって事になる訳だ。」
 一応、話を引き取る格好で、そういう言いようをしたサンジから、
「ここにもチョッパーが一応の結界を張ってたはずだし、向こうは向こうで、俺らがそれなりの障壁結界を張っていたのをあっさり掻いくぐって…って行為だったから、それで俺たちも驚いてる訳なんだがな。」
 事細かに、咬み砕いて並べられると、
「………えと。」
 さしもの坊やにも、コトの大きさ・複雑さというのか理解は出来たらしい。ちょいと俯き、少なくとも膨れるのはやめた模様。何とか落ち着いて、こうして向かい合ってるものの、先程までは本当に、どうなることやらな混乱のあれやこれやに翻弄されまくってた彼らでもあり。
『サンジっ、ルフィがいなくなった!!』
 此処へと戻って来た途端、途方に暮れたチョッパーが泣きながら飛びついて来たことまでカウントするなら、かなりの方々が翻弄された晩だったことになり。

  「しかも、だ。コトの元凶さんはどっか行っちまったしな。」

 何が腹立たしいって、それが一番に腹に据えかねる彼らでもあり。見るからに棘々しいお顔になって、紙巻きを口の端へと咥えたサンジの声へと、
「ご、ごめんなさい。」
 湯上がりの二番手さんへと冷たい飲み物を運んで来たビビさんが、自分の非だと言わんばかり、細い肩をすぼめたその途端、
「何 言ってんですよう。」
 がばぁっとお顔を上げたサンジがどんな風に弁舌を振るって、彼女のせいではないとフォローしまくって見せたかは…わざわざ描写しなくともご想像がつくことでしょうから、この際 割愛致しますが、(「うぉいっ」

  「結局んとこ、あれって何者だったんだろうな。」







            ◇



 絶対絶命の大ピンチ。とんでもなく高層の中空にて、その身が陽体化、つまりは生身の人間と同じ組成に変換してしまったものだから。ああこれは、もはやこれまでかなんて彼には珍しくも諦めが頭の中をすっと過
よぎりかけてたそんな中。奇跡の滑空、小さな坊やが、駆けつけてくれて難は逃れて、さてとて。
「ゾロっ、ルフィっ。」
 大冒険をしちゃったぞ、ゾロを助けてあげられたぞと、何とも嬉しそうな坊やと寄り添い合ったまま、無事に地上へと降りて来た彼らの傍らへ駆け寄ったところへ、
《 サンジさん。》
 どこからか聞こえて来たのが、サンジの咒により安全な場所、この亜空間の外へと飛ばされたビビの声。
《 そちらはどうなってますか? こちらの態勢も整いましたので、空間ごと虚無海へ流すことも出来ますが。》
 どんな影響を齎すかを思えば、本当は最も取りたくなかった結末だけれど。こうまで手のつけられぬ状態と化してしまってはもうもう仕方がない。これを幸いと言って良いものか、密度収束やら陽力との相殺やらで容量がずんと極小化したしたので、そうと運んでも他の次元への影響は出なかろうと算出されており、一刻も早く手を打たねばということでそんな伝信を飛ばして来た彼女であるらしく、
「それなんだけどもね。」
 色々と事情が見通せないことはまだまだ山ほどあったけれど、今はそういったものに悠長に答え合わせをしてもいられない状況だから。状況がこうと変わってからの責任者として、彼女が取った段取りを是としつつ、
「頼みがあるんだ。」
 自分たちが陽体と化していること。だから、自力では障壁を越えられない、迎えに来てほしいとサンジが手短に告げると、
《 あ・じゃあ、さっき飛び込んで行ったのは誰なんですか?》
 彼女らは待機中の外で察知したもの。どこからともなく、とんでもない加速に乗って飛来した何かがあって、止める間もあらばこそ、彼らが見守っていた亜空へと飛び込んだ。一応は結界にくるまれし空間なのだから、そうそう簡単に通過出来るはずはなく、てっきりサンジが念を送って、天聖界から誰か助っ人を呼んだのかと思っていたらしいのだが、
「ああ。ルフィだよ。」
《 …はい?》
 彼女にしてみても意外な名前であったらしい。ついつい訊き返してしまうのも無理はないかと苦笑してから、
「どうも無我夢中でやって来たらしくてね。入ったは良いけれど坊主にも出方は知らないらしいから。」
「む~~~。何だよう、その言い方は。」
 だから、外からの助力をよろしくと告げると、了解しましたという応じと共に、どこからともなく…ひらひらちらちら、青銀に輝く翅をひらめかせ、大きめの蝶が飛んで来た。
「わ。こんな夜なのに、蝶々だ。」
 さっきまでのやり取りは聞いていたろうに、それと…軽んじられたと膨れてもいたろうルフィが、そんなのあっと言う間に忘れて無邪気な声を上げたので。ゾロもサンジも二人して苦笑する。地上のそれなら、南米のエガモルフォ。メタリック・セルリアンブルーが角度によっては玉虫色に輝く、そんな鮮やかな翅をしたその蝶々は、サンジの差し伸べた白い手の先へ はたりと止まると、立てて合わせた翅をふるふるっと揺すぶり始める。翅の輪郭から振り撒かれる鱗粉が、キラキラチカチカ、それ自体が光を放ちながら舞い飛び始めて。あれれぇ?とルフィが驚いている間にも、その光は淡く広がり、やがては視界に紗をかけてゆき、

  ……… はっ、と。

 一瞬、不意に眠気がさし、あわわと我に返ったような、そんな感覚に襲われて。頬に当たる夜風の冷ややかさに、
“あれ? 此処ってば さっきとは違う場所?”
 周囲を見回し、そうと気がつく。夢の中から飛び出したかのように、気がつくと宙を滑空していたルフィにしてみれば。それもまた夢の世界の延長のような場所、妙に広々、何の建物も土地の隆起もない、ただただ だだっ広いところに到着したような気がしていたのだが。妙な眠気の後に見回し直してみると、
「あれれぇ? 此処って区立植物園の裏手じゃんか。」
 見覚えのある場所だと気がついた。自宅からはJRを乗り継がないと行かれない、結構な距離のある場所。ちょっぴり山間いに入りかかった、郊外の丘陵地の外れ。
「こんなところで仕事だったんか?」
「まあな。」
 応じてやりつつ、夜風を感じて肩をすぼめる坊やに気づく。よくよく見ればパジャマ姿だ、これでは寒かろう。自分が着ていたトレーナーを衒いなくがばりと脱いで、懐ろ間近に引き寄せた、小さな坊やの肩へと巻き付け、そのままよいせと抱き上げる。裸足の足元も寒かろうと思ってのことで、坊やのほうでも慣れたもの。わいvvと喜び、頼もしい懐ろにぱふっとお顔を伏せたのだけれど。
「…? あれれ?」
「判るか?」
「うん…。」
 何か違うとすぐさま気がつくところが、おサスガというか何というか。日頃からスキンシップはお盛んらしいとあっさり暴露しちゃった彼らは置いといて。

  「で、あのクソガキはどこだい?」

 こちらはこちらで周囲を見回し、さあお仕置きの時間だぞと凶悪なまでに にんまりし。大きなお怒りの反作用、口の端を持ち上げかかってたサンジさんへは、
「それが…。」
 ビビが怖ず怖ずと口を開いた。

  「あっと言う間に消えてしまって。」
  「何だって~~~っ?!」

 あんまり勢いよく大声を出したもんだから、ビビちゃんが何度も何度も頭を下げてしまったほど。勿論、いやいやビビちゃんのせいじゃあないさと、素早く執り成したのは言うまでもなかったが、

  「…何物なんだろな、あいつ。」

 翻弄されまくりだった大人の皆様が、揃いも揃って…渋いお顔になりつつ首を捻ってしまった、そんな不思議な晩であり、任務の果てだったのでございます。







            ◇



 コトの詳細はこうで。ビビと前後して、やはりあの空間の外へ飛ばされて来ていた小さな子供。正体は相変わらずに判らないままながら、ビビが留め置くようにと指示を出し、とりあえずはと他の聖封たちが身柄を確保していたのだけれど、
「今から思えばルフィくんが、流星みたいに亜空へと飛び込んでったのを見て。急に大人しくなると、何事か考え込むような、そんな様子でいたのですが。それが妙に“うんうん”と頷いて見せてから。」
 変わったデザインの靴の爪先で、とんとんともう片方の足元近くを軽く蹴るようにして見せてから、
『それじゃあ俺はお暇するよ。あ、そうそう。あのお兄さんたちも もしも陽体変化していたら、天聖界の聖水にとっぷり浸かれば元に戻れるから。』
 そんな風に言い置いて、じゃっそういうことでなんて憎らしい言いようを残し、あっと言う間に姿を消した。一応は聖封たちが周囲に立っていたのだから、そう簡単には次空移動などなど出来ない状態になっていたはずなのに、だ。
「だな。力任せの突破じゃないなら尚のこと、彼らが気を張っての結界、天聖界の人間にだって簡単には破れるもんじゃない。」
 ビビのみならず他の面子にしたっても、仮にもこっちの世界での実務に駆り出されていた顔触れだ。咒力も強いし反射や何やだって鋭い筈で、あんな子供の存在まるごと、容易く取り逃がすもんじゃない。とはいえ、
「お前も言ってたろうが。ただ近寄っただけで夜気の塊にああまでの収束連鎖を起こさせたほどの、力なり生気なりを持ってた存在には違いないんだぜ?」
「う…。」
 そして…そんな何とも珍妙な乱入者のお陰で、七転八倒、大混乱のうちに幕を下ろしたなんていう、みっともない流れとなってしまった任務でもあり。一番の問題が謎のまま、大きな宿題となって天聖界組の皆様の胸中へと刻印されたのは、言うまでもなく。

  「捨て置く訳にもいかないな。」

 ウチの爺ィか、若しくはナミさんなら何か判るかも。鹿爪らしいお顔になったサンジさんへ、やはり真摯な、感慨深げな眼差しを向けていた破邪さんだったが、

  「………お。」

 そんな彼の二の腕あたり。いつの間にやらお隣りへと移って来ていたらしく、傍らから凭れ掛かってた小さな温みが、これまたいつの間にやら寝息を立てていて。
「チョッパーももう寝たらしいしな。」
 何でもかんでも“結果オーライ”って訳にはいかないが、それでもね? うっすらとお口を開けての隙だらけ、そのままとろとろ、蕩けてしまいそうなほどに ふややんと。柔らかさ極まれりな寝顔や寝相で熟睡してしまってる坊やを皆して覗き込んでいると、ついついの笑みが出てくるし、ああこの眠りくらいは守れなくちゃねなんて、そんな暖かな士気も沸いてくる。春まだ浅き、夜の底。数々の不安を孕んだ東風が、来るべき嵐の予感を抱えて闇の中、サザンカの梢をざわりと揺すって通り抜けていった。








        ◆◇◆



  ――― ねえねえ、青キジ様。
       ボク、面白い子を見つけたよ?
       フツーの人間の子なのに、筺体なんだ。
       それもすごく容量の大きな。
       ね? トムを捕まえるのに使えると思わない?








to be continued.(06.1.17.~3.20.)


←BACKTOP***


  *何とも意味深なシメ方で。はい、続編があったりします。
   またぞろ長引かなきゃいいのですが…。

bbs-p.gif**